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  ●南部氏による陸奥国の制覇

南北朝時代の急激な政治の流れの中で、陸奥国、出羽国はどのような様相をしめしたであろうか。 奥羽(陸奥・出羽)の土地は広大である。『太平記』に「奥羽は日本の半国におよぶ」とあるが、後醍醐天皇足利尊氏も、奥羽支配こそ、全国支配の要であると考えていた。

 尊氏は6月5日、天皇が京都に到着したその日、すぐに鎮守府将軍に任じられ、8月の論功行賞(手柄をほめる)で、早くも旧北条泰家の領地であった糠部郡(現、青森県東部から岩手県北部)と外ケ浜(現青森市から津軽半島の東海岸一帯)の地頭職を要求し、これを与えられている。

 尊氏はまず、奥羽に布石を打ったのである。 天皇は同8月、北畠親房の嫡子顕家を陸奥守に任じ、10月20日には天皇の皇子義良親王(のち、後村上天皇)を奉じさせて、多賀城(現、宮城県多賀城市)にある国府に下向させた。 鎮守府将軍足利尊氏の地盤は関東であり、その背後の奥羽に天皇は楔を打ち込んだのである。

  それにしても、顕家は時に16歳、義良親王はわずか6歳である。 この2人には『神皇正統記』を著わすことになる顕家の父親房が後見役となって下っているが、当時の政治情勢がいかに緊迫し、混乱していたかがうかがわれる。

  従う武士たちは、白河(現、福島県白河市)の結城宗広・親朝父子、伊達行朝、長井貞宗、伊賀貞光、葛西清貞など、いずれも東国・奥羽の有力武士であった。 この中に、鎌倉攻めに功績のあった、甲斐国波木井郷(現、山梨県南巨摩郡南部町)を本領とする地頭、南部又次郎師行と弟六郎政長の2人がいた。

 なぜ師行が糠部郡の国代に任命されたのだろうか。 甲斐国の武士がこの地に来たのだろうか。 顕家とともに陸奥国に下った有力な武士たちは、いずれも南奥羽と東国に所領をもった者たちである。 縁もゆかりもない人物を供なってくるはずはない。 それを証明する文書がある。 元弘3年12月に南部時長・師行・政長の三兄弟が、建武新政府の雑訴決断所(建武政権下の訴訟機関)に訴えた所領争いの「目安状」(『南部家文書』、糖部下向のあわただしい中での訴えである)に、「政長が奥羽よりまっさきに鎌倉攻めにはせ参じた」という言葉が見られる。政長が奥羽に居住していたことを示す証拠である。

 その土地がどこなのか、いまだ明らかでないが、元弘3年の顕家下向に同行し、国代として赴任した糖部郡内ではなかったかと思われる。 少なくとも、その土地の情勢を知っていなければ、北条氏の得宗領の多かったこの地方の支配はできない。

 また糠部郡は古くから駿馬の産地として知られていた、平安の末、宇治川の先陣争いで名を馳せた「生月」「磨墨」の名馬が育った土地でもあり牧場経営の盛んなところである。

 師行ら南部氏の本拠地である甲斐国も馬産地であり、師行らが牧場経営の熟練者であったことを考え合わせると、早くから奥羽に関係していたと推察され、やはり政長が糠部郡に所領をもつなど、何らかの係わりがあったのは確かであろう。 師行は糠部郡に赴任するや、八戸の工藤三郎兵衛尉の居館にはいり、早速、根拠地として根城築城にとりかかった。 根城は馬淵川が太平洋に注ぐ手前にあって、その流域から新井田川と接する河口近くにかけて開田可能な低地が広がり、階上岳の麓から北に広がる台地は馬の飼育に適している。 また、海岸線は出入りが多く、海の幸豊かな土地である。 さらに糠部郡の中心に位置するため、津軽、鹿角、比内、仙北へも通じる交通の便の良い土地でもある。

 延元元年(1336)正月13日、顕家の軍勢が近江に到着した日、北奥の地では、尊氏から合戦奉行に命ぜられた安藤五郎次郎家季が、奥羽総大将の斯波家長と結んで顕家・師行など国府方の拠点である津軽藤崎城と平内城を攻撃する。 同じく延元元年正月20日、国府方の津軽船水城が曽我貞光ら足利方に攻撃されている。 さらに6月21日には南部信政の妻加伊寿御前の父、工藤貞行の守る田舎館城が攻められるなど、戦乱は奥羽全体に広がった。

 吉野に移った御醍醐天皇は、足利方から京都を奪回すべく顕家に再度奥羽軍の上洛を命じたが、直ちに軍勢を整えることは困難であった。 顕家による上洛の編成は年を越さざるを得ず、延元2年(1337)8月になる。 この第2回目の上洛軍には南部師行が糠部の軍勢を率いて参加した。弟で後を継いだ政長と、政長の子信政らが師行の上洛留守中、根城に残り、北奥の足利方に対処することになった。

 上洛軍は各地で勇戦したが、高師直らの大軍に攻められ、顕家・師行らは和泉国石津(現、堺市)で戦死、奥羽軍は全滅した。 延元3年(暦応元1338)5月22日のことであった。

 前述のように、南北両朝合体後、根城南部8代政光は足利方に降伏することが不満であった。 いっぽう、三戸城にいた三戸(盛岡南部氏では、先に北朝方について功績もあった13代守行が、一族である根城南部氏の滅亡を心配して、足利幕府に従うようすすめた。 政光はその忠告を受け入れ、先祖伝来の甲斐の本領をすべて捨て、御醍醐天皇から与えられた糠部郡の八戸に移住することにした。 明徳4年(1393)のことであった。この年から根城の内外に多くの家臣団が移り住むようになったため、城の郭を増やしたり、建物を大きく建てかえたりしたようである。

 南北朝時代、北奥羽に大きな力をおよぼした根城南部氏も、これを境にして活動の範囲はせばまり、以後、三戸南部氏と連動して活躍する。 そして、南部氏惣領として三戸南部氏が表舞台に登場することになる。

 その現れとして応永18年(1411)から始まった秋田の安藤氏との戦いをあげる事ができる。このとき総大将は三戸南部の守行、いっぽう、根城南部では10代を継ぐ光経が従軍している。 この戦いは、はじめ南部方が不利であったが、光経が出羽月山に祈願したところ、2羽の鶴が舞い、九曜の星が懐にはいった夢を見たのをきっかけに大勝利をおさめたという、いわゆる南部家の「向かい鶴」家紋誕生のエピソードをはさみながら両南部氏連携の領地維持、拡大ぶりを推察することができる。

 三戸(盛岡)南部氏が頭角を現してくるのは、南北朝合体の明徳3年(1392)以後、根城南部氏に変わってからで、13代守行からである。14代義政は嘉吉3年(1443)、津軽十三湊の下国安藤氏を追い、津軽地方を完全に支配するとともに、足利将軍義持から「義」の1字を拝領、京都御扶持衆(将軍の直臣)の1人に認められた。 中央政権との結びつきを強めるとともに、それを背景に南部惣領の地位を高め、北奥支配を強化したのである。

 八戸河内守を名乗る政経が蠣崎の乱を鎮める10数年前のことで、両南部家が手をとりあって、北奥で勢力の拡大をはかっている。 その後、23代安信、24代晴政とつづくが、16世紀にはいると秋田の檜山安東氏が台頭、鹿角郡、比内郡進出をうかがうようになる。

 永禄元年(1558)、安藤愛季は南部氏に不満をいだく比内郡内の武士たちにたいし結束を呼びかけ、以後、両者のにらみ合いがつづくことになる。 永禄9年(1566)、愛季は鹿角郡内の南部方の長牛、三ヶ田、長嶺、石鳥谷の諸城を襲った。鹿角平野のもっとも肥沃な土地である。対する南部晴政は永禄11年(1568)、叔父石川高信とその子信直(後に26代)、それに九戸政実の軍勢を鹿角に動員、安東の勢力を撃退したが、この争いは天正の末までつづく。

 永禄年間(1558−70)の後半から元亀年間(1570−73)にかけては安東氏との争いのほか、南部氏一族間の内紛なども起こっており、いっぽう津軽ではその間隙を突いて、大浦家に久慈南部家から養子に入った(津軽)為信が独立をはかるなど北奥羽は戦雲に覆われる。

 永禄13年(元亀元1570)、晴政晴継が生まれたことから、女婿で世子である信直晴政が対立、晴政と重臣北信愛との争いもおこった。

 また、その3年前の永禄十年(1567)には、根城南部氏の八戸政栄が一族の櫛引弥六郎と争うなど、南部氏の結束が緩む。

 元亀2年(1571)五月、為信が石川城を攻め、信直の父高信を戦死させ、つづいて浅瀬石城など南部方の諸城がつぎつぎに落城する。

 天正6年(1578)、南北朝時代からの名家である浪岡城(現、青森県浪岡町)の北畠氏が大浦為信に滅ぼされ、津軽外兵一帯の南部領がおびやかされる。 いっぽう、南部氏は晴政・晴継の死後、その相続をめぐって、信直九戸政実とが対立した。 根城南部氏18代八戸政栄信直と同盟を結び、九戸・櫛引・七戸氏らと対抗、南部領内は二つの勢力に分かれ抗争するようになり、為信の独立が容易になった。このことにより、南部藩の一族から津軽藩が独立し津軽為信が誕生した。

「図説 青森県の歴史」より
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